昭和五十六年十月八日 朝の御理解
御神訓一
「用心せよ わが心の鬼がわが身を責めるぞ。」
良心の呵責という事を申しますが、難儀が全てめぐりのせいであると。ならそのめぐりというのは、どういう事かというと、結局良心の呵責の積み重ねであると思うですね。
良心の呵責、その積み重ねがめぐりの形、めぐりのせいで様々な、まあ難儀が、難儀を作る事になる訳ですけれども、合楽理念の実験実証、合楽理念の勉強をさせて頂いておると、そのまあ言うなら良心の呵責というか、それが積み重ねられて一つの難儀を形成する。
ところが合楽理念に基づくと、その難儀そのものを、こう神愛有難しと、この受けていくのですから、もうそこには難儀もめぐりも、又有難いという解釈になる訳です。いや、むしろその事に、このお礼が言えれるような心の状態。
結局合楽理念に到達し得ないでおる人達の上に、又信者の上に、あのう用心せよ、我が心の鬼が我が身を責めるというふうに言う事になるのです。合楽理念に基づいてまいりますと、まあおかげと。
昨日御大祭、御本部の御大祭を頂いて、前日が福山の御信者さん方の会合に私が出らせて頂いて、行くたんびんに新たな御信者がもう遠方からでも、その話を聞き伝えて参拝をしておられましたが、もう本当に何んと言うんでしょうか。まあ笑い話のような事が難儀な元になっておるというような人の、まあ猫を殺したというので猫のたたりで、その日夜悩んでおると。或る教会にお参りさして頂いたら、それはやっぱり猫のたたりだと、そういうふうに言われる。
ですから、こりゃまあやっぱそういう事が事実あったとして、やっぱ良心の呵責。猫は魔性のものと言うから、やっぱたたられたのじゃないだろうかと。こう良心の呵責なり、それがまあ現在の難儀となり、次々とよくない事が起こってくるという。
ですから、他愛もない事が良心の呵責になっておる。ね、それでもやはり心に一つの呵責があるから、そういう難儀な事になってくるのかも分かりませんけれども、出た所勝負というか、例え過去にどういう事があってしても、そこに難儀があっても、その難儀を通り来させて頂く手立てというものが、まあ合楽理念をもってするとすっきりとしていくし、むしろお礼を申し上げるという事になる。
昨日は、前日は支部長であります所の支部長さん宅にまあ泊めて頂いた。立派な大変大きなお商売をなさっておられて、まあ見事なお神様が奉祭されてあって、広いお家でして、そこに皆が集まって、私、一人一人お取次さしてもらう、お話を聞いてもらう。そして、又、晩は遅うまで、栄四郎と淵上先生が夫婦で来とりましたから、その三人を囲んで、まあ共励をしたと、こういう事でございましたが、丁度支部長さんが前日まで具合が悪くて休んでおった。それがおかげで、朝方から起き上がらせて頂く事が出来て、いろいろ御用も出来たし、昨日は一緒に御本部御参拝もでけておりましたが、合楽の先生を迎えてというのに、どうしてこんなに体が悪いだろうかと、まあ神様にお願いもなさったでしょうけれども、おかげで、その朝から起き上がる事がでけた。で、その事を神様にお願いさせて頂いとりましたら、あのう茗荷のしのというのがありますね。茗荷の花とか、茗荷のしのとか。茗荷のしのを、この位(一握り)ばっかり、まあこう一束ね、四、五十本もありましょうか、それを輪にしたお知らせを頂いたんですけれども。
例えば、その難儀というか苦しいというか、その病気そのもので、まあ出るそのものが、まあ言うならばめぐりのせいであるとするならば、それをまあ信心させて頂けば、お取り払いと頂く事もでけるでしょうが。
昨日、私が頂いた御理解はね、そういう具合が悪かったけれども、親先生が見える朝から元気になって、御本部参拝も事なくでけたという時に、そこにどうかあったから、その一人その有難さは大きい訳。健康であるという事は当り前であるけれども、その不健康であったものが神様のおかげと思わずにはおれないようなおかげを頂くと、事によってより有難い、ああ間違いないなあというふうに心からお礼が言えれる。それが、私は妙賀だと思うですね。茗荷のしのだったと、こう思うです。
だから妙賀の次には必ず富貴繁盛と言われるのですから、妙賀栄える富貴繁盛と言われるのですから、言うならめぐりというか、良心の呵責、積み重ねが一つの難儀の元にもなる。その難儀のおかげで信心が出来ます。おかげで、おかげを受ける。普通では言うならば、もう病気をしてみなければ、本当の健康の有難さは分からんと、こう言うふうに申しましょう。言うように本当の有難さ、そのものが妙賀である。喜びの妙である。それが今度は富貴繁盛に繋がっていくというのですからね。合楽理念をもってすると、その呵責の積み重ねが難儀の元を作り、めぐりの元を作り、そしてそこに難儀が一つの形になって現れてくる。その現れてくる難儀のおかげで信心が進む。妙賀のおかげが受けられる。そして富貴繁盛のおかげになるというのですから、ね、こりゃ合楽理念をもってするとお礼を申し上げる事であります。
私共が犬を殺したの、猫を殺したのというような事はありませんでしても、やっぱり思うてみると、日々ね、まあ人の心を傷つけたり、又は場合によっては殺したりするような事があります。あんな事言わにゃよかった、せにゃよかったと思うような事がありますが、これはやはり良心の呵責ですけれども、合楽理念に基づくと、心から詫びれば許してやりたいのが親心だとおっしゃるから、そこにお詫びをした、お詫びが叶うたといったような心の状態を、言うなら日々のリズムの中からね、はあ許されたなあというようなものを感じれる手立てが合楽理念ですから、もう合楽理念をもってすると、そこん所のいわゆる呵責にもならなければ、これからはめぐりにもならないという事にもなる。
いよいよ喜びの信心を一途に進めていくという事になりますが、だから合楽理念をもってすると、私は、そのいわゆるめぐりも又神愛として頂く事が出ける。して勿論良心の呵責を負うような難儀な事も段々無くなってくるでしょうし、ありませんでしょうし、むしろお礼を申し上げたいというような信心生活に入っていく事が出来るね。けども、例えばよし過去に於いてあったに致しましても、今言うように合楽理念をもってするとお礼を申し上げる事ばっかりという事になる。いや本当に、その事が富貴繁盛の元になるね。おかげを頂いて、いうならばまあ兎に角おかげおかげと、おかげに教祖様がおしゃっておられますように、一切を喜びで受けていきゃ、此方の道は喜びに喜んで開けた道じゃからと言うのも、そういうような意味の事になるのじゃないでしょうかね。めぐり、なら良心の呵責。めぐり、そしてそこに難儀が起こる。けれども、そこん所を言うならば、有難く頂く手立てを稽古さしてもらってるのですから、喜び喜びで開けていく道。いよいよ妙賀栄える富貴繁盛のおかげが頂けるというふうに思いますね。どうぞ。